同じ瞬間は二度とないという意味での一過性、不定期でありながら永続的に先を見据える成長曲線。90年代後期、都内をはじめ、各地で数々のパーティーを繰り広げてきた『VITAMIN-Q(バイタミン キュー)』は、そのフィールドをオーストラリア・バイロンベイに移してからも、パーティーを続け、記憶に残る多くの夜をメイクしている。日本から様々なアーティストを招聘し続け、元来持ち合わせていたであろうオーガナイザーとしての資質に加え、その環境下で培われた更なる基盤はローカルコミュニティを巻き込み新たな可能性を見出している。踊るという事、共に過ごすという事、ライフスタイルの多様性。それはそこに根差す事で育まれる次への希望。歴史の生き証人として築いてきた深い懐で、感極まる時を共に、永い旅路の中で何より自らが楽しむ為に、多くの者が輝けるダンスフロアを開放する。
YUKI (VITAMIN-Q) Interview
—– まず最初に『VITAMIN-Q』の幕開けの部分、はじまったきっかけからお伺いしてもよろしいでしょうか?
元々は1996年に西麻布でやってた1年間限定のクラブだったんです。
90年代初頭にロンドンに住んでいて、そこでレイヴを知ってどっぷりハマっていったんです。80年代の終わりから90年代の初頭辺りにロンドンでは倉庫や郊外の野外、公園でもダンスパーティーをやってたんですね。当時、日本の音楽事務所に入っていて、英語の歌詞を書いて歌ってたんで、英語インプルーブしろって言われてロンドンに送り込まれてたんですけど、まんまとレイヴ・パーティーに夢中にちゃったんです。で、自分達も友人がスクワットしてた廃墟にスピーカー運んでパーティーをやったり、更にエスカレートして郊外の海岸なんかでもやったりしてました。
日本に帰って来たら、友人達が六本木や麻布辺りのクラブで、ゴアトランスってジャンルのダンスミュージックで朝まで踊っていたんです。レイブムーヴメントが世界中にもの凄い勢いで拡がっていった頃なんですよね。週末の2晩とか踊り続けてボロボロになって、みんなで一緒に公園で朝日を眺んで、最後はアフターアワーズって言う日曜の朝から始まるパーティーにフラフラと移動する。次第にフロアでよく見る顔同士が共同体のようになって来るんですよね。日本にゴアやイギリスからの流れでそういうレイヴ・パーティーが入って来たばかりの頃で、六本木周辺でイスラエル人達がレストランを一晩だけ貸し切ってサウンドシステムを運び入れてパーティーをやったりとか、DJはイスラエル人だったりイギリス人だったり… で、フロアに日本人が2,3人しかいないようなパーティーも度々ありました。帰りの出口で手渡されるフライヤーの束だけが次回のパーティーの情報源で、吟味して次週の週末のルートを決めるんです。
当時、『Equinox』って言うゴアからの流れの日本で初めてのレイブパーティーを始めたオーガナイザー達がいて、音、デコレーション、オーガナイズ、全てにおいて素晴らしくて日本にもここまでイケてるパーティーをオーガナイズ出来るチームが居るって事にかなり触発されました。そのころ、知人が西麻布に物件を管理してて、そこでレゲエのチームがクラブをやってたんですけど、あまり調子良くなかったんですね。その前に中野でクラブの立ち上げを手伝った事もあったんで「ちょっとクラブやってみない?」って事で声を掛けてもらい、中野を一緒に立ち上げたZUBOって言うアーティストカップル、元BOREDOMS(ボアダムス)で、現在はドイツのCANのダモ鈴木氏とセッションバンドをやったりしてる E-da氏、私と当時のパートナーと、西麻布にVITAMIN-Qを立ち上げました。
それが1996年で、アーティスト、ミュージシャン、様々なクリエイター達の間でいきなり盛り上がったんで、メディアとかもかなりやって来たんですけど、シークレットでコアなベニューにしたかったんで取材とかテレビとかは全部断って、海外のカルチャー誌の取材を数回だけ受けました。週末の三日間だけ開けていて、遊びに行ったパーティーなんかで出会った面白いオーガナイザーやミュージシャン、DJやアーティスト達を誘って次第にレギュラーが決まって行き、それぞれ月一くらいでやってもらってたんです。定期的にやっていたのは、例えば『サードカルチャー』オーガナイザーはブライアン・バートン・ルイスで、たーくん(浅野忠信)とか、た-くんの兄の久順くんとか私も一緒にDJやったり、そこにBOREDOMSのメンバーがジョインしてきたり… ボアのEYEちゃんが初めてDJをやったのがVITAMIN-Qだったんですよ。高木完ちゃんとChina aka 小泉氏とEYEちゃんと3人で『Sky Touch』と言うパーティーをやってました。最初はピッチもあってないし、繋げてないしって感じだったんですけど、そんなセオリーを軽〜く飛び越した圧倒的な説得力がありました。フロアがほんっとにヤバかったんですよ。毎回誰にもマネ出来ない飛びを見せてくれて、異常な程盛り上がったフロアになってました。元々彼はピンポン録音とかで音創りを始めた人なんで、曲と曲をオーバーラップさせて構築する音楽は、もうすでに彼の領域って言うか… そこからは、あれよあれよと言う間に凄いセットになっていきました。
あと、ロンドンで一世風靡したDJ TSUYOSHIなんかは、イギリスのレイヴ・カルチャーを引っ張ていた数少ない日本人のひとりなんだけど、彼もやってくれてました。一度、TSUYOSHIくんのバースデーバッシュをやったんですけど、六本木中の外国人が来ちゃったんじゃないか?って程のダンストラベラー達が集結してフロアに入りきれず、ビルに面した六本木通りの歩道が人で埋まって大変な事になった事がありました。
HIFANAの2人なんかもまだHIFANAを始める前でパチカとかジャンベを鳴らしている時に、遊びに来てくれていたんで「あんたらおもしろいからエントランスいらないからいつでもおいで~」って、彼らは、現在下北沢でMOREってバーをやってる宮ちゃんが中心になって宮ちゃんのディジュリドゥ、KEIZOとJUICYのパーカッション、あと、ベリーダンスのMIHOとで『Tribal Circus』ってパーティーをやってました。
あと、今も絶大な人気のDJ MASAとRee.Kの率いるThe Party『Space Gathering』も何度かやりました。現在、KINGDOM☆AFROCKSや、鎮座DOPENESSとのユニット、DOPING BANDのリーダーIZUPONも『タイコタタキ隊』って言うパーティーをやってましたね。あとJuzu a.k.a Moochyとか、AOAのホームグランドだったり、いや紹介しだしたらキリが無いんですけど、大勢の気鋭変態アーティスト達が入れ替わり立ち代り常にエッジな場をクリエイトしてました。
—– 実際の営業期間は1年間だけだったんですよね?
そうです、ほぼ1年間。例の桃源社ビルっていう本当のオーナーも誰だか分からないような怪しい所だったんで、最初から1年間という約束でやったんですけど、とにかく1年とは思えない程の濃縮したコンテンツやタレンツが集まってかなり面白かったですよ。クリエイターだけじゃなく、遊びに来てた子達にも、今各業界で第一線で表現し続けている人達がかなりいますね。口コミだけで、同じ周波数にアンテナをセットしてたJoyの探求者が1年の短い時間に凝縮されて集まった感じですね。
—– 1年間営業されて、その後っていうのはどうしていたんですか?
その後は、毎年1回ずつ野外でレイヴ・パーティーをやっていました。
今だと『Taico Club』がやっている「こだまの森」というベニューとか、あと、「鹿嶺高原」っていう天空の城ラピュタみたいな雲の上の山の頂上が広場になっているベニューとか、ちょっとゲリラ的にそういう場所でパーティーをやっていたんですけど、1998年の「こだまの森」でやったパーティーの集客がとうとう3000人を超えちゃって、出演アーティスト達も、日本のトランス界とオルタナティブ界の粋の融合って感じの、極めてニューウェーブなダンスフロアになったんですけど、これ以上大きくなったらもうパーティーじゃなくてイベントだなって思って。私、大き過ぎるダンスフロアには全く興味がないので、やっぱりみんなの顔が見える、全員が全員のことをフォローできる場じゃないとパーティーじゃないかなと。いっぱい客が入りさえすれば良いっていうイベントは意識が散漫になるでしょ?自分も楽しみたいし。フロアがひとつになって魔法の瞬間が生まれるようなパーティーがやりたかったんで、そこで一度VITAMIN-Qを封印したんです。
で、2000年に沖縄の最北端のビーチでカウントダウンパーティーを、有志のオーガナイザー達と集まってやったんですけど、そこで日の出の時間にBOREDOMSがライブをやって夢の様な次のミレニアムのスタートになりました。その時シーンのエッジに居たDJ達も駆けつけてくれて素晴らしいギャザリングになったんですけど、その後、私は妊娠したこともあって、生活を昼間にシフトするつもりで、VITAMIN-Qのクルーやアーティスト達と、中目黒にMANGOSTEENと言うカフェを始めたんです。そこにDJやミュージシャン達が告知無しでシレッと音出したりしたりしてました。お茶飲んでいると横でEYEちゃんやMOODMANがDJやってたり、ディジュリドゥのGOMAちゃんがライブをやったりする面白い空間でしたね。その後『MANGOSTEEN MUSICO』っと言う、毎回テーマを変えて音と食をトータルでオーガナイズするパーティーを、現在のMANGOSTEENケータリングの子達が続けています。大企業やビッグネーム相手にキッチリ仕事してMUSICOで遊びを発信するんです。毎回テーマを設定して選んだアーティストとお料理をみんなで一緒に楽しもうって言う贅沢なパーティーを現在も発信し続けています。
※ MANGOSTEENのアーカイブはこちら → http://www.mangosteen.vc/musico.html
その後、2006年にオーストラリアに移住しました。パーティー自体はやるのも行くのも2000年頃から9年ほどお休みしていたんですけど、また沸々と熱が沸き上がって、子育てもちょっと落ち着いた2009年に『VITAMIN-Q Byron Bay』って名前で再び始めました。
—– バイロンベイに移住したのはやっぱり子育ての部分が大きかったんですか?
理由は3つあったんですけど、ひとつは地震が怖くて、東京で地震が来たらヤバイなっていうのはずっとありました。
—– 東日本大震災が起こる以前からそういう意識を持っていたんですね。
ええ、でも放射能の事は、こんな事になるなんて予測できてなかったですね…。 ただ地震はそろそろ来るなって思っていたので、それがひとつの理由と、もうひとつは野菜の味がどれも一緒だぞと。日本は国土も狭いし、作物を作ったあとに無理やりpH(ペーハー)なんかをアジャストして次の作物を作るような農業をやっているから食べているものがヤバイんじゃないかと思い始めていました。葉っぱモノは型は違えど味はどれも水っぽいし。ここでは、毎日何処かでファーマーズマーケットをやってて、家の前にも朝採りオーガニック野菜を売ってる八百屋もある。あと自然とMSGやら加工食品を取らなくなりますね。あともうひとつは子供が二人いるんですけど、日本語だけしか喋れないと世界の有事の時に何も正確な情報を得られないなと思って… なので、最低限英語は生きていくツールとして子供たちに持たせてあげたいなって思ってました。当時、周りにMAD MAXみたいな世界になったらどうすんの?って言ったら笑われてましたね。(笑)
—– 移住先はなぜバイロンベイだったのですか?
以前はオーストラリアとか全く興味がなくて、何もない粗野な田舎じゃんとかって思ってたんですけど、子供たが生まれてから意識が変わりましたね。例えばアメリカとか新しい国でも、もうある程度出来上がってるじゃないですか? ヨーロッパも洗練されてて、素敵なモノや文化もいっぱいあるんだけど、やっぱり「おじゃまします」って感じがあるんですよね。だけどオーストラリアは違う。みんなが移民だからまだニュートラルだし、誰がどんな考え方しててもあまり関知しないんですよ。「私はこういう考え方であなたとは違うけど、あなたがそうしたいんだったら、あなたが好きにする事を尊重するわ。だってあなたの人生だから。」って感じで、自分と違った考え方の人が隣にいても特に目くじらを立てない。歴史のある国から見たら様式美ができていない粗野な国かもしれないけど、隙間がいっぱいあって生きていくのにまだ伸びしろがあるんです。国として歴史のある様式美や価値観や常識が他の国ほど確立されてないので、世界の一番新しい考え方を受け入れられる柔軟さがあるっていうかね。高度経済成長のような機会も味わってないから「このままこの現行の経済システムで生きていって良いの?」っていう疑問を持った人たちが世界中からどんどん移住してきて、サスティナビリティーな生活を自然に実践しているというか、もちろん極端にストイックにそれをやっている人もいますけど、モノを無駄に使わないとか、むやみやたらに買ったり捨てたりしないとかを自然に実践してるんですよね。特にその種の人達はこのバイロン周辺に集まって来ています。
—– たしかに無理のない範囲でそういう生活をしている印象はありますね。
みんな家庭菜園とかもやるし、大型スーパーには入っちゃダメっていう反対運動もすごかったり、私が住んでいるバイロンベイは特に環境に関するアクティビストが強固ですけど、結構そういう自然に回帰しやすい環境だったこともあって移住しました。
ただ、ここ最近は変わってしまった部分もかなりあるんですよね。コマーシャルなバイロンっていうか、作られたカントリー色とか、作られたジプシー色とか、作られたヒッピー色とか、そういうのが強くなってきたので、ちょっと街の中は嘘くさいです。(笑) お金持っていないと、カントリー風のレストランで食事をして、ジプシー的なドレス着て、ヒッピー的なレイドバックな生活はできないみたいな滑稽な感じになって来ちゃってるんですけど、それでも土地が持つエネルギーは凄く強い。
アボリジニーの口述伝説のレインボーサーペントの物語って聞いた事ありますか?オーストラリアの大地は虹色の大蛇が這って出来たんだと。虹色の大蛇が最後に横たわって頭を置いた部分がバイロンって言われてるんです。アボリジニー達はバイロンの事をカーバンバーって呼んでいるんですけど、ミーティングプレイスっていう意味なんですよ。彼らが人生においてヒントが欲しいと思った時や、何か迷いが生じた時に、蛇の頭であるカーバンバーに行くと、逢いたい人に逢えて、それによって知りたい事が分かり、人生の指針を得る。って言われている場所なんです。
—– そういう意味でのミーティングプレイスなんですね。
ええ、それがカーバンバーっていうアボリジニー語ですね。本当にそういう場所だなって感じますね。イルカやクジラ達もいっぱい見れるんですけど、クジラ達もあのバイロン岬を目印にして出会いと出産の旅をするらしいんです。だから、自然界でも特別な場所というかミラクルな場所なんだと思います。
—– 『VITAMIN-Q Byron Bay』としてオーストラリアでパーティーをはじめるにあたって試行錯誤した部分って何かありますか?
こっちはパーティーも凄く盛んだって聞いていたんですけど、実際に来てみてビックリしたのが、サイトランス オンリーだったんですよ。ヨーロッパや日本のパーティーだと一人のDJが割と長い時間を掛けて音を構築していってジャーニーを作るみたいなプレイを好むんですけど、オーストラリアはとにかくひとつのパーティーにたくさんDJが出て1人1時間ずつ位やるみたいなパターンが多くて、じっくりフロアが温まらないというか、みんな1時間しかないからヒット曲をガンガン流すみたいな事を10人が10人ともやっちゃう。わびさびが無くて、しかもジャンルはサイトランスオンリーみたいな感じで、これはちょっと困ったなって思いましたね。そういうパーティーがあっても良いとは思うんだけど、それしか無かったんで、「これは逆に自分達でやらんと!」と思って2009年に『VITAMIN-Q Byron Bay』を立ち上げました。
DJ達を日本から呼んでやっていくうちに地元の人も大勢来てくれるようになって、こういう言い方はおこがましいんですけど、「DJの創る旅で、やがて意識を飛び越して体と音をひとつにする楽しみ方」を教えてあげたいと思って。それで私と私の周りのダンスミュージックが大好きなスタッフ達が、毎回ガッツリ踊りに集中して楽しんで… その内、ローカルの子達とか、パーティー好きなワーホリや学生の子達、クラブの経験のない子達なんかもジョインして来て、その中からもスタッフをやるような子とかも出てきたりして、どんどんダンスコミュニティが大きくなりました。一緒にVITAMIN-Qを創ってるクルー達は家族の様ですね。彼らが居なくちゃ、もうパーティーは出来ないです。私、バイロン シャイアのMullumbimby(マランビンビー)って所に住んでいるんですけど、私が引っ越して来た時、日本人は私の他に2,3人しか住んでなかったんですけど、今は日本食レストランもあって「外国の片田舎で日本人がこんなにいる所は見た事ない」って言われるくらい沢山の日本人が住んでて、しかもみんな踊るの大好き。今ではダンスフロアの半分近くは日本人じゃないかな?ってくらい。
—– 基本的には日本からアーティーストを呼んで行う感じなんですか?
それは私の勝手なこだわりなんですけど、必ず日本のDJを呼びたいと思っています。日本には手練れがたくさんいるんですよね。近年だったら、VITAMIN-Qにも何度かゲストとして来てもらった DJ NOBUくんが、ヨーロッパだけでなく世界中で引っ張りだこで、彼にフロアを任せたら間違いないっていう評価を受けているんです。日本には他にもNOBUくんみたいに海外に出たら絶対に注目されるDJ達がいて、そういうDJ達のチャンスになったりすれば良いなとも思っているし、それは私が日本でクラブをやって魔法の瞬間を何度も味わえた事への恩返しじゃないですけど、微力ながらも日本のDJ達の間口を拡げたいっていう気持ちも凄くあります。例外に、日本のレイブシーンの夜明けに深く関わったRay Catsle(レイ・キャッスル) と Nick Taylor(ニックテイラー)や、アメリカからBOREDOMSのメンバー SUN GABLIEL aka Butchy をクンビアのDJセットで呼んだ事がありますが、彼等も日本に深く関わってやって来たんで呼んだんですが、基本的にはいつも日本のDJを呼んでいますね。
—– その一回のパーティーで終わらずにその後の活動まで考慮してってことなんですね。
そうですね。純粋にソフィスティケートされた良い音で踊りたいんです。5年位前からこっちにもハウスとかテクノのオーガナイザーがどんどん生まれて来ているんですよ。その内の一つのオーガナイザーは、VITAMIN-Qやスタッフの子達がオーガナイズしたパーティーにも来てくれてた子達で、今はブリスベンで一番信用のあるテクノのチームになっているんですね。その子達はオーストラリアのパーティーの流れを組むんじゃなくて、いわゆるヨーロッパのテクノやハウスの流れを、そういう様式美のようなものをカッコイイと思ってる様な子達で、1人のDJが長くプレイしてじっくり踊らせるようなパーティーをやっているんですけど、彼らとは凄く仲良くしてます。先日、日本からCMTを呼んだ時は、急遽CMTをオンしてもらったり… そういうカルチャーの連携が地元のオージーの子達とも生まれてきていますね。他にも、ダンスミュージックが大好きで、自分達でお金を出し合って、良いスピーカーやサウンドシステムを買ってパーティーをやってて、私達のパーティーを凄く気に入ってくれて、そのシステムを格安で貸してくれるてる子達が居るんです。「僕たち、VITAMIN-Qで音を出しているっていうのが凄い自慢なんだ」って言ってくれて、次第に広がって行くダンスミュージックユニオンをラブリーに感じています。そういう地元の子達との強い繋がりも出来て面白い事になって来てますね。
—– 会場内、デコのインパクトも凄いですよね。
デコに関しては、『R type L』っていう、廃材をディギングして集めてきて毎回凄いヤツを作ってしまう日本人、ダミくんって子がヘッドのパーティーデコレーターがいるんです。ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアなんかの大きなパーティーのオーガナイザー達からも熱い信頼を得ていて、確実に良い物を作ってくれる、メチャクチャイケてる子達なんですけど、彼らにやってもらったり。世界各国に彼らのファンがいっぱいいるんですけど、オーストラリアにももちろんいっぱいファンがいて、ダミくんを無償で手伝うみたいな子達がいっぱいいて、ダミくんがオーストラリアにいない時はそういった、R type Lのオースラリア支部的なバイロン在住のアーティスト TropiKatsuとそのクルーがデコをやってくれています。彼等のダンスフロアを創造するパッションは素晴らしいし、それが創るモノにも現れてます。
—– DJ以外にバンドを呼んだりすることはないんですか?
今回に至るまでDJのパーティーが主で、BOREDOMSのぞろ目の日付けでやる『111 BOADRUM』というパーティーを11年11月11日にバイロンでやったんですけど、これもかなり面白かった! 過去にNYの『777BOADRUM』、LAの『88BOADRUM』って試みがあって、それぞれ77台、88台のドラムを、公園に螺旋状に並べてEYEちゃんのコンダクトで演奏するんですけど、興奮しますよ、Youtubeなんかで見てみて下さい!で、2009年は私達がオーガナイズしました。奄美沖の皆既日蝕に合わせて、日本でやっているケータリングクルー MANGOSTEENと大阪のレジェンドパーティー 『Beta Land』を主宰していたVJアーティストColo Graphic、今『ZIPANG』ってパーティーのオーガナイザーをやってるZENとで、ロシアから船を借りて、『Lucy in the Sky with Diamond ring Tour (L.S.D.Tour)』と銘打って、3つのダンスフロアを創り、甲板のプールの上はステージを創ってBOREDOMSのライブをやったんです。50人以上の日本のオルタナティブミュージシャン達やDJ達を乗せた船で皆既日蝕を見に行く…って言う、もう完全に天国の音楽船旅情。海上の無法地帯ですよ。ディジュリドゥのGOMAちゃんとか、DOMMUNEの宇川直宏くんも、VJとして上船して出演してくれて、音もデコもVJもホントにやばかったですね(笑) ウラジオストクから借りた船で博多から出航して3泊4日のクルーズだったんですけど、博多港に帰港してみたら、福岡県警の警察官と、福岡海上保安庁の保安官達が、着岸場所にズラッと並んでたって言う… まあ、この話は機会があればまたいつか。(笑)
その後、2010の BOADRUMはメルボルン、そして2011年11月11日の111BOADRUMをVITAMIN-Q Byron Bay presents としてやったんですけど、バイロンの111 BOADRUMは、ローカルだけでなく、メルボルン、シドニー、オーストラリア全土から111人の演奏者が集まりました。GONGのディビッド アレンがいきなりやって来て参加してくれたり… 大変だったけど、老若男女がみんなでひとつのグルーヴを創る様は圧巻でした。本当はバイロンのメインビーチの広場でやりたくて、あそこで111台のシンバルとドラムでやれたらかなり面白かったんだろうなと思って。バイロンのカウンシルに協力を要請したんですけど、時間もなくて、カウンシルの人達は「なんだそれは?」って感じで理解が得られなかったんですよね。でもそれとは別に協力者が現れて、バイロンの街から3分くらい離れた所に秘境のような、鉱物の採掘場跡の湖と芝生が広がるドリームランドがあって、そこのオーナーが面白がってベニューを貸してくれたんです。本当に天国のようなベニューで、かなりステキなギャザリングになって、何故かその場に居たローカル新聞の取材やインタビューも数件受けたんです。そしたら後からうちのカウンシルでやったイベントだよ、って感じで役場に写真とか飾られてて「いや、協力してくれなかったじゃん」とか思ったりしてね。(笑) 言葉もネイティブじゃないし、こういうリーガルかイリーガル ギリギリのデリケートなケースのプレゼンは難しいなって色々勉強しましたね。(笑)
VITAMIN-Q Byron Bay Presents『111 BOADRUM』- 11.11.11 BYRON BAY
—– 盛り上がっている一方で、最近バイロンベイも音を出す部分での場所とか時間とかの制限がかなり厳しくなってきていると伺ったのですが、結構急激に変わっていった感じなんですか?
2009年にはじめた時なんかも、昔からいる人は「厳しくなってきたね」って言ってたんですけど、まだ朝までパーティー出来る所はいっぱいありましたね。でもここ最近は結構大変で、みんなアウトバックの砂漠の手前くらいまで行ってゲリラ的にやったりしてますね。それも見つかると解散させられちゃうんで、内緒でやっている人もいるんだけど、レイブ・パーティー自体、世界的にそういう傾向にありますよね。若者への影響力が大きいんで、体制からみたらちょっとした危険分子なんでしょうね。
—– そういう部分となんか気に入らないって事でクレームを入れる人とかも増えてるんでしょうね。
なんだか訳の分かんない若者達がドラッグを食いまくってヘベレケになっているっていう認識の人もいっぱいいるし、実際そういう若者も居ますけどね(笑)純粋にいい音で踊りたいだけなのに、ちょっと世界的に苦しい状況ですよね。ただ、少し前までは、朝まで踊ってみんなで朝日を浴びて最後踊り尽くすって、そういうパーティーがやりたくてオーストラリアに引っ越して来たんだけど、最近は周りもみんな私もそうなんですけど、ダンスフロアにいるより海にいる事の方が多いんですよね。海にすぐ行けて大抵何処かのビーチに波があるって言うバイロンは世界有数のサーフィン天国なんです。完全にアディクトです。(笑) 国全体が早寝早起きムードだし… 何より場所がないって事で、VITAMIN-Q自体はそういう事もあって最近はあまりパーティーをやってなかったんですよ。
—– そういった中でこの間(2018年4月)、僕も遊びに行かせて頂いたパーティーは23時までという制限はありつつ久々に開催してどうでしたか?
東京に居たら23時までのパーティーなんて絶対やってなかったと思うんだけど、ダンスシーンがここにあるって知って移住する仲間達が居て、その仲間達もサーフィンやる様になって来て。岸本くんが来てくれたパーティーの日の流れは、朝起きてサーフィンを2,3時間やって、フロアを創って、夜中までがっつり踊る。で、朝まで休んでまたサーフィンに行こう、みたいな感じで週末を楽しみましたよ。
—– それぞれの楽しみ方、その状況にあった楽しみ方って絶対あると思うし、23時で音が止まってもその余韻を楽しむことができますもんね。
まさに本当にその通りですね。パーティー明けの朝、みんな夢の中のままサーフィンに行くって感じなんですけど、パーティーの後のサーフィンはまた素晴らしいですよ。
—– (笑)まあ事故とかだけ無ければOKですよね。
そうですね。(笑) だから今回バイロン独自の私達なりのパーティーの楽しみ方がハッキリイメージ出来ましたね。この間のパーティーは23時までだったけど、全く不満はなく「こういうやり方も有りだな」って確信したパーティーでした。でも2年半のブランクがあったからみんな来てくれるかな?とか、VITAMIN-Qのいつものフロアみたいに踊ってくれるかな?とか、不安はあったんですけど、実際はブランクを経ても全く同じ大爆破のダンスフロアでしたね。
—– お客さんはむしろ「待ってました!」って感じだったんじゃないですかね。
本当!そんな感じでとってもピースフルで ディライトフルなエナジーが漂ってました。
—– 流れ的にはこれを機にまたパーティーを続けていく感じになるんですか?
あの場所で2,3カ月に1回やって行こうって考えてます。夜中までやって、ぐっすり寝て、またサーフィンに行くっていうのもやってみたら意外にフィットしました。
—– 2,3か月に一回、日本から誰かしらを呼ぶ感じになるんですか?
そうしようと思っています。呼びたいDJもいっぱいいるし、有難い事に来たいって言ってくれるDJ達もいて「まだ呼んでくれないの?」って言われたりしているので(笑)
—– 一気に火が着いた感じですね(笑)
着いちゃいましたね~(笑)
ここ2年は本当に場所がなくて、何もできないみたいな感じでちょっとくすぶってましたけど、完全に消えてなかったですね~(笑)
—– この間のベニュー(The Bilinudgel Hotel)は開放的ですごく良い場所でしたね。
あの場所は、一年程前にシドニーからやって来たオーガナイザーがフリーパーティーを始めたんですね。5回、6回とやる内に、ホテル側が協力的になってくれて「チャージしてやっても良いよ」って言ってくれたらしいんですよね。その話を聞いて、それなら私たちのパーティーもできるかもしれないと思ってあの場所にオンしたんですよ。逃げ場所もあるし、子供が遊んでいても全然大丈夫だし、心残りだった朝までできないって事も、やってみたらクリアしたし、私たちの今の生活ペースにマッチしていました。
—– チャージができるかどうかもひとつの大きなポイントだったんですね。
そうなんですよ。フリーパーティーがベストなんですけど、スピーカーを持っている人がスピーカーを持って来て、音源を持っている人が音源を持って来て、それがゴアとかで始まったいわゆるパーティーなんですけど、私たちは日本で贅沢をし過ぎて良い音を聴き過ぎちゃったんですよね。やっぱりサウンドシステムに重きを置きたいし、機材も妥協せず最新のモノでやりたい。全然音違いますからね。機材とサウンドシステムの良し悪しでDJ達も出す音変わって来るし、オーディエンス達の音へのハマり具合でフロアがひとつになるか否かが変わるし、それは再びDJ達にフィードバックされてパーティーの流れが変わって来るんですよ。必ず唸らせてくれるDJ達を日本から呼びたい。それをクリアするにはみんなに協力してもらわないとなかなか大変なんですよね。
—– みんなで楽しむ上で、負担のバランスがおかしくなると駄目ですもんね。
そうですね。個人で使うお金は全く無いです。手伝ってくれた子達にビールを飲んでもらって、デコレーションやってくれた子達にもちゃんとお金を払いたいじゃないですか。やっぱりそこら辺はちゃんと報酬を払ってあげたいなって思っています。盛大にやり過ぎて赤字の時も多々ありましたけどね。(笑) フリーパーティーで和気あいあいとやっているパーティーもバイロンには沢山あるけど、デコもいつも同じだし、システムもヒドイし、DJもいつも同じでかかっている曲も同じみたいな。あたしはそこでは楽しめないんですよね。心と体を震わせる様な刺激が欲しいんです。完璧な状態でDJを迎えたいし、音が良いとDJも上がってきて、良いミックスをして、それを聴いてフロアも上がってくる。そういうお互いの相乗効果は必須ですね。
—– あと、地元のアーティストとの絡みっていうのはどんな感じなんですか?
80年代中盤辺りにイギリスで興ったアメリカのシカゴハウスの流れから爆破したセカンドサマーオブラブって言うダンスムーブメントや、新世界をseekするエッジな若者達が集まったインドのゴアトランスのムーブメント辺りの、世界中のパーティーを周って来たトラベラー達が、結婚して子供が生まれて落ち着く時、終の住処としてバイロンを選んだって人が多く住んでるんですよ。オーストラリアの片田舎なのに、元々居たオージーより、ヨーロッパやアメリカや日本で産まれた人がかなり移住して来てる特殊な場所なんですね。パーティーフリークやサーファー達が、終の住処をここにしたっていうの分かりますね。独特の空気感があります。
だから、VITAMIN-Qを始めて最初の方は、日本でも知られているようなレジデントDJをオンしていたんです。Ray Catsle(レイ・キャッスル)っていうニュージーランド出身のゴアトランス全盛期に一世を風靡して、日本にレイブ・カルチャーを紹介した一人と言っても過言じゃないDJがいて、当時私たちがパーティーを始めた時に、彼もバイロンに移住してたんでプレイしてもらったりとか、ヨーロッパや日本で有名だったDJ Nick Taylor(ニックテイラー)にもやってもらってました。彼も次の住処としてイギリスからバイロンに移住した一人でした。その2人はやっぱりワールドワイドで、ダンスフロアをよく解かっていました。
オージーのDJ達はさっき言ったように上げまくりみたいなDJが多くて、どうしても踊れなかったんですね。もう踊れなかったら意味がないんで、地元のDJは使ってなかったんですけど、最近ヨーロッパからのハウスとかテクノの流れを汲んだ若いオージーのDJ達が出て来たんですよ。この間のパーティーの時、そのうちのひとりをオンしようとしてオファーを出したんですけど、たまたま彼が旅行中で叶わなかったんです。彼も「凄くやりたかったー」って言ってくれてたんで、また次のタイミングで呼べたらっていいなって思ってます。その彼の仲間の中にも「ヨーロッパとか日本のDJカッコイイよね」って練習している若いDJ達がいるんで、彼らをどんどんオンしてって、日本からヨーロッパとかに行ってるようなDJ達の音を聴いてもらって、新たなインスピレーションが生まれれば良いなと思っています。
—– お互いに刺激になるだろうし、なんかしらの事が生れそうですね。
本当にそう思います。そこでカルチャーのスワップって言うか、若者たちが何か感じてくれて、面白いものを創ってくれればと思います。
—– 彼らは彼らで新しいパーティーをはじめるかもしれないし、日本で活躍するアーティストも出てくるかもしれないですね。
そうしたら私たちも遊びに行くパーティーが増えるわけじゃないですか。オーガナイズせずに無責任に踊れるパーティー!(笑)
—– (笑)自分たちがオーガナイザーのパーティーだと、色々やる事や目を向けないといけない事も多いですもんね。
自分が一番踊ってみたいパーティーをオーガナイズしてるんで、ホントは良いパーティーグループやオーガナイザーが生まれないかなっていうのはみんな思っているんですよ。踊りに行きたいパーティーが近くにあったら良いねってみんなで言ってるんですけど、この先、そのローカルの若者たちがVITAMIN-Qから刺激を受けてそういう場を作ってくれれば、面白いムーブメントになるだろうなって思っています。