仙台出身、野球育ちのシンガーソングライター 佐野碧(AOI SANO)。2015年に起こったネパール大地震を発端に支援活動「HIKARI SONG GIFT」をスタート。2016年、2017年は音楽とソーラー式ランタンを現地に届けた。空、大地、地球との繋がりをテーマに、繊細かつ壮大なメロディーと、ソウルフルな歌声。昨年地元仙台のプロ野球戦で国歌斉唱を務めるなど今多くの視線が注がれている。そんな彼女のルーツとこれからの事も交えつつ、ネパールでの体験、現地での事などを中心に話しを伺った。
佐野碧 Interview
—– まずは、シンガーソングライターを志したきっかけを教えてください。
はじめて歌うようになったのは高校生の頃で、作詞、作曲をするようになったのは大学の頃です。だんだん活動をしていくうちにオリジナリティを追求しはじめ、音楽を通して自分と向き合う時間を持つようになりました。 今思えば、当時は、その時抱えていた反発心や寂しさ、情熱などを誰かに伝えたいというのがシンガーソングライターを目指したきっかけだったんだと思います。
—– 音楽を始めたのもその高校生の頃が最初ですか?
3歳の時からピアノは習っていたんですけど、すごいいっぱい習い事をするタイプの家でした(笑)
—– ちなみにピアノ以外も何か習われていたんですか?
野球とお花、合気道、水泳ですね。
—– この段階でただならぬ感じがしていますね(笑)
ほんとに「こんなに忙しい小学生いる?」って感じでした(笑)
—– それって全部同時期に習っていたんですか?
全部同時だったんですけど、水泳とかは週1でしたね。でも野球だけは毎日あったので、必ず5時から朝練行って、学校行って、他の習い事にも行っていました。
—– その中で子供のころ特に夢中になっていたのは野球だったんですか?
やっぱり野球ですね。野球に夢中になってました。
—– 音楽に目覚めるのもう少しあとの事だったんですね。
ピアノも楽しかったんですけど、野球が毎日あったのでどんどん情熱的になっていったのは野球でしたね。ランドセルを忘れてボールを持っていくような子だったから、いつもグローブにボールを投げながら歩いているような子でした。
—– ポジションはどこだったんですか?
セカンドとサードです。
—– やり手な感じがしますね!
リトルリーグの時、東北の選抜にも選ばれたんですよ!
—– めちゃくちゃ凄いじゃないですか! そういったかなり本気で野球に取り組んでいた中で、そこから音楽の方へシフトしていったのには何か動機みたいなものってあったのですか?
中学生の時リトルリーグを卒業し、少しあそんでいた時期がありました。 当時はヒップホップなどが流行っていて、自己主張がカッコいい風潮もありました。 その時の私はまだ、自分がここ居るんだ!という単なる主張をしたかったんじゃないでしょうか。要するに、きっかけは、目立ちたかっただけなんだと思います(笑)
—– やり始めの頃はどういった感じの音楽をやられてたんですか?
最初はヒップホップとか R & B が多かったんですけど、 私小さい頃親の関係で結構海外に行っていることが多かったんですけど、家の中でお経が流れるくらい怪しい家で、色々な音楽も流れていて、そういう事もあって民族音楽とかにも興味があったので、そういうのもどんどんサウンドにいれていくって感じでした。
—– これは民族音楽だとか、いわゆるジャンル的な認識は後からついてきた感じですか?
そうですね。自然とそこにあったので、その時は分かってなかったかもしれないですね。 ジャンベとかも当時はまだあまり知られていなかったんですけど、普通に家にあって、その時にパソコンでDTMを始めて自分の音を録音して重ねて出来上がっていくのが楽しくて、その辺りからオリジナル性を追求するようになっていきましたね。
—– 実際の活動は高校生の頃からされていたんですよね?
高校の時はツインボーカルのユニットで活動していて、さっき言った自分で作ったり、録音したりっていうのは大学に入ってからなんですけど、そのころは今も一緒にやっているバイオリンの鈴木カオルも入って3人でやってました。
—– 鈴木カオルさんとはそれ以来ずっと一緒にやられているんですか?
その大学の時に3年位一緒にやって、その後は上京してそれぞれで、私は普通に活動していて、カオルさんはオーケストラに入って活動していたんですけど、何かのタイミングでライブに来てくれて、そこで「またやろうか!」って感じで一緒にやるようになりました。
—– 現在の動きとしては、ネパールでの活動というのがベースとしてあるのですか?
特別にそれがメインという訳ではないのですが、色々な活動をしていく中での動きとして「HIKARI SONG GIFT」って言う企画があって、それはソーラー式のランタンをお客さんに買って頂いてそれをネパールに持っていくっていうすごくみんなを交えた企画なので、とても重要な動きのひとつですね。 最初に出したアルバムが『KARMA』っていうんですけど、大地とか空とかそういったものがテーマになっていて、自然と活動もそういった方に向いていますね。
—– 2015年にネパールで震災が起こった時は、かなり早いタイミングで現地にいかれたんですか?
母親がネパールに住んでいて、わりと早いタイミングで向こうに行きました。東日本大震災の時はすぐに動けなくて心配な思いもしたので、この時はすぐに会いに行こうと思いましたね。母親の安否確認と、その時にライブ活動を通して頂いた募金を持って向かいました。その時は頂いた義捐金を母親に届けて、最後まで見守りたいという気持ちで行ったんですけど、行ってみたら母親がすごいボランティア活動を頑張っていて、正直私、向こうで義捐金だけをしっかり責任をもって渡すだけのつもりだったんです(笑)。素人の私がボランティア活動をすること自体迷惑になると思ってました。それが実際行ってみたら、とてもそんな感じじゃないなと。まず電気がないし、私間違った所に来ちゃったと思いましたね。そして気づいたら支援活動をしていました。
—– 想像していた状況ではなかったという事ですね。
向こうに着いた瞬間、やばい帰りたいってすぐに思ったんですよ。でも手伝わないといけないなと思ってトイレとか作ったりしていたんですけれども、ほんとはそんなことするつもり全然なくて、震災直後で歌を歌うつもりも全くなくて 、日本での震災の時もすぐに歌う気なんて全くしなかったから、まずは水だよ食べ物だよ っていう考え方だったから、ネパールでも歌う気なんて全くなかったんですけど、知り合いの方にストリートライブしなよって言われて、テント生活をしている人達のど真ん中で誰もいない時に歌いはじめて、そうしたらすごい人が集まってくれて、そこにドネーションボックスを置いていたら 現地の人もお金を入れてくれたんですよ。音楽の力ってすごいなって思って、それが「HIKARI SONG GIFT」の発端と言うか、音楽と何かを届けたいと思ったのはその時でしたね。
—– その時はどれぐらいの期間行かれていたんですか?
最初は1週間で帰る予定だったんですけど、延期して3週間位いました。
—– その時歌ったのはその一回だけですか?
そうです、その一回だけであとはずっと支援活動のお手伝いをしていました。とにかく必死で、それでいて、虚しかったり、楽しかったり、とにかく感情が忙しかったです(笑)
—– でもその状況で楽しいっていう感覚が残っているのは、きっとその一回のライブがあったからですよね。
確かに、その一回のストリートライブは本当に楽しかったですね。トイレ作りはつらかったですけど(笑)
—– その後一度日本に戻られて、再度ネパールを訪れたのは翌年になりますか?
そうですね、2016年です。日本に戻ってからネパールであった事、音楽ってすごいって話を仲間にしたら、「向こうでは何が足りなかったの?」って話しになって、そこでランタンを届けたら良いんじゃないかって事になりました。
—– それで、今年も向こうに行かれたと思うのですが、昨年と今年で現地の状況に違いって感じられましたか?
目で見た感じだと、テントで生活している人は減ったと感じました。でも地震前から道路はボコボコだったりしますし、ちょうど水道工事をしていたので、更に道路はボコボコ。私たちだと地震の時に壊れたのか、元々なのか、その差を見つけるのが難しかったりするんですよね。
—– 確かに元々の状態を知らないですから、目で見ただけじゃ判断できないですよね。
そうなんですよ、それで聞くと「これは前から」とか言われて、えー、どれが地震で壊れたのか解らないという会話はよくあります(笑)。おっしゃるように、目で見ただけでは判断できないです。1年前と比べてテントの数は減ったように見えたものの、まだ復興に近づいたとは言えない景色でした。 ようやくほとんどの地域で電力が復旧したものの、今だ復旧していない地域が まだまだあるのも現状です。
—– 停電は地震が起こる前からあったんですよね?
そうなんですよ。それが、地震が起こった事で1日の中での停電の時間が4時間くらい増えてしまっていたんですけど、地震前から停電自体はありました。当日は、停電のスケジュールを事前に知ることができ、そのスケジュールに沿って、仕事、生活がまわされていました。
—– ネパールでボランティアなども含めて活動するこのチームには他にどういった方々がいらっしゃるんですか?
現地では、母の周りの方々が協力してくれました。母を含む現地のボランティアグループのSaino Nepal が中心となり活動をしました。日本からは私、バイオリンの鈴木カオル、友人たちです。
—– お母さまはネパールで暮らしながらずっと支援活動をされているんですね。
そうですね。母親はすごいネパールが好きだから支援とかも現地を尊重した形でしようとするのですごく良くて、そこから色々なことを学びましたね。押し付けて言ったら押し付けなのかもしれないですけれども、そこら辺のさじ加減とか、それが本当に現地の人にとって良いことなのか、それを決めるのは向こうの人なのかもしれないですけれども、そういうこともちゃんと考えてやれているのは母親のおかげですね。
—– そういった現地の事が分かっている方がいるのは心強いですよね。並ぶ事とかゴミを分別する事とかこっちでは当たり前と思っているような事が当たり前ではないから、こっちから物を持っていく事で起こる混乱もあるって言いますよね。
ほんとにおっしゃる通りで最近、私が尊敬する宮原巍(みやはらたかし)さんという、ネパール国籍を取得し、50年以上ネパールに住み、貢献されてきた方の公演があって、そこで彼は「ネパールをダメにしているのは支援だ」って言ったんですよ。本当に何かを与えるだけというのは逆に悪くする事もあるんだと思いますね。
—– デリケートで難しい所ですよね。でも実際にランタンを持って行って、向こうの方に渡したら喜んでくれるんですよね?
すごい喜んでくれますね。
—– それと同時に音楽も届けられたと思うのですが、2016年の時は5000人が集まったとの事ですが、それはどういった辺りから集まって来たんですか?
どこなんでしょうね。なんかどんどん増えていくんですよ。メディアにも出ていたし、バクタプルっていう日本だと京都みたいにすごい観光客が多い所ではあったんですけど、ほとんどネパールの人だったので、どこから来たんだろう(笑)
—– (笑)向こうでもプロモーションはされていたんですね。
そうです、現地のテレビとかにも出させて頂いたりはしました。
—– でもテレビの普及率って日本ほど高くないですよね?
どこの家にでもあるわけではないみたいですね。でも翌日テレビ出ていたねとか言われたので効果はあったのかなと思います。あとやっぱりインターネットが強いですね。
—– なんだかんだ携帯の普及率はめちゃくちゃ高いって聞いたことがあります。
携帯はみんな持ってますね。Wi-Fiはすごい弱かったですけど、インターネットはみんなやっているみたいですね。あとSNSとかでのシェア率が半端なかったです。みんな良いと思ったらすぐシェアしてくれるんです。
—– 機材とかステージとかはどうしているんですか?
現地スタッフ(会社)に依頼しています。 もちろん、お金がかからないことに越したことはありませんが、それも一つのネパール支援だと思っています。
—– 特にトラブルとかは起こらずやれたんですか?
ネパールにいると、ほとんど上手くいかないですよね(笑)。時間もそうだし、お腹壊したり体調は絶対崩すし、汚い、嫌だ、性格合わないとか、最初の頃はそんな事ばかりでしたね。 でも今回は企画を開催するのが2回目という事もあって、ようやく慣れて余裕ができた気がします。 現地の人と過ごす時間が長かったから、トラブルも微笑ましく感じましたね。本当に現地の方々が最後まで一生懸命手伝ってくださいました。 活動の中で疑心暗鬼はないとは言い切れないけど、前回は特に、疑うことに対して罪悪感を感じてしまい、疲れてしまったんですね。 自分が日本人とか、支援をしている側というアイデンティテがある限り、そこに縛られてることもわかりました。
—– 気が付いたらランタン一箱全部どこかにいっちゃったとかあったら一体何しに来たんだってなるから多少疑心暗鬼になるのも致し方ないのかなとは思いますけどね。
そうなんですよ(笑)。だからそういう責任感は持っていましたね。
—– ランタンを持ち込む時の空港の通関とかは特に問題なかったんですか?
それも去年なんですけど、実は一度止められてしまって、ランタンの新品はダメだって言われたんですよ。私意味が分からなくて、これで持って入れなかったらなんて事を考えたら色々な人の顔が浮かんできて、気が付いたら暴れてたんです(笑)
—– えー(笑)暴れたらダメでしょ。
(笑)そうしたら色々な人が集まって来ちゃったんですけど、そこで何か話し合いがされて、普通に通してくれました。
—– それ、普通奥に連れていかれるところですよ(笑)。でも逆境でもなんとかしてしまうパワーを持ち合わせているというか、そういう境遇なのかもしれないですね。
でも、ほんとひやひやしましたね(笑)
—– あと気になったのが、前回の時、集まった人数が5000人に対して持っていったランタンが約300個ですよね。ここでの振り分けってどういった形をとったんですか?
第一回目の時はそれで「もらっていない」というちょっとした暴動が起きてしまったんですね。 もちろんそういうことも考慮した上で、フェスティバル開催前に、配る場所も遠くに変えて渡す予定だったのですが、どこからか情報が漏れたんだと思います。 バクタプルという場所だったんですけど、そこを取りまとめている方を呼んで収めてもらいました。やっぱり、これは簡単にやってはいけない事だって事を痛感しましたね。 ただ、色んなことを気にしすぎても、怖くなって何も行動できないとも思い、ここについては、だいぶ葛藤しました。怖かったです。 考慮してもそういう事が起こってしまったので、今回はそれを無くすために現地の中心となる方と一緒にずっと周っていく形にして、配る部分に関しては色々工夫しましたね。
—– 今回はライブをやる場所、配る場所も変えられたんですよね?
前回は5000人の会場だったんですけど、今回は185世帯色々な民族がいるスラム街で、そこは母親がずっと学資支援していた学生が住んでいた所なんです。それでそこのAMA(お母さん)が最後まで一生懸命協力してくれました。彼女がいなかったら、これだけランタンの配布から本番までスムーズに終えることはできなかったです。そのAMAが最後ライブ終わった時にすごい喜んでくれて、「私の娘みたい」と言ってハグしてくれたのが今回一番嬉しかったですね。そのひとりの笑顔が本当に感動しました。
—– ただ向こうに行って配ってきましたじゃなくて、そういうちゃんと繋がっているって感じられる人が増えていくのが今後こういった活動を続けていくうえでは大事ですよね。
前回は規模が大きすぎてあまり関われなかったんですけど、今回そういう人との物語みたいなのがあったのは嬉しかったですね。
—– 綺麗ごとなのかも知れないですけど、物資にしろ音楽にしろ色々な支援がある中で、そういった繋がりもそうだし、何か希望を見出してもらえるのかっていうのは大事なような気がしますね。
ほんとそうですよね。日本に帰って来て気が付いたんですけど、向こうにいる時って全然安心できなくて、自分を客観的に見る時間一つないんですよね。 Wi-Fiが繋がらない、水が出ない、お湯が出ないとか道路がボコボコで牛が出てくるとか、イライラする事も多くて、 だから私はランタンを最初どこか物として見ていたんですけど、そうじゃなくてこれは安心を提供できるんだなと思うとすごい良い事をしてるなって、あっ、自分で言ってるんですけど(笑)。
それで音楽も解放された気持ちになって欲しいとか人の心にグッとくる音楽を歌いたいなと押しつけだけどずっと思っているから、音楽と安心を届けるというのは良い事だなって帰ってきてからそう思いましたね。
—– これはずっと継続して行っていく予定なのですか?
今の活動に限らず継続は小さい頃からずっと大事にしたかった事なので続けて行きたいですね。『千の灯火 〜Shanti〜』という曲を公式テーマソングとして作ったんですけど、ランタンに関しては1000個集めたいなと思っています。
—– 今はいくつでしたっけ?
2年目で395個ですね。でも1000個と言ってもその時に必要なかったらいらないと思うんですよ。
—– もしランタンよりも良いと思うもの、必要なものが見つかったら途中で変えても良いかなって感じですか?
はい、それは変えて良いと思っています。でも音楽を届けるという部分は変わらないので、一緒にライブをやって想いを届けるって事を続けられたら良いなと思っています。
—– その他、ネパールでの活動以外の部分で今後の動きって何かありますか?
今、CDを作っていてそれを10月位に発売したいと思っていて、そのアルバムの制作に入ろうかなって感じです。今年はそれが一番大きいですかね。色々な活動はしていますけど、作品を出してもっとライブをやるっていうのが理想だし、今の課題かもしれないですね。
—– 今はネパールでの活動の印象があまりに強すぎると感じているんですね。
そうですね。その活動自体はすごく大事な事なんですけど、その結果が、私の作品やライブに繋がってるというところに注目して頂けたら嬉しいです。
—– 昨年、プロ野球の試合で国歌斉唱をやられたんですよね?
そうなんですよ! 野球をしていたこともあり、楽天コボスタの球場に入った時は感動でした。ここに遂に来られたって思いました。
—– 本音は始球式もやりたかったんじゃないですか?
始球式もやらせてもらう予定でちゃんと『碧』って書いたグローブももらったんですよ。でもそのとき色々と諸事情があったようなので、ひとまずシャードーピッチングして満足しました。
—– あっ、ほんとは投げる予定だったんですね。
そうですよー。ほんとは悔しかったです(笑)
—– (笑)それはちょっとリベンジしたいところですね。なんなら今度は始球式メインでまた国歌も歌わせてもらえたら良いですね。
それ良いですねー!練習積んでバシッと決めたいですね!
—– その他にこういう場所でライブをやりたいとかってありますか?
武道館は絶対やりたいんですけど、場所は問わず多くの人がいる前で歌えたら、CDもたくさんの方に聴いてもらえたら嬉しいです。
—– 最後に次回のアルバムはどういったものになりそうですか?
『NAMIDA』というタイトルのCDです。涙には色んな涙があると思います。悔し涙、嬉し涙、悲しい涙…
これまでの経験から涙を色んな角度から表現したいと思っています。 涙は悲しいものではなく、流し、満たされるものとしてこのCDを聴いてほしい。 また、全ての私の活動はライフワークで、歌詞、曲に繋がっています。 そういうアーティストという枠組みを壊す意味でもこのアルバムに挑みたいと思ってます。
ライブ情報
佐野碧(SANO AOI) LIVE
HIKARI SONG GIFT vol.2 〜Cross over〜
Cross over… 越えた先に見えた世界とは-
ネパール帰国後パワーアップした佐野碧ワンマンライブを乞うご期待!!
【東京公演】
-日時-
2017年6月1日(木)
開場:19:30 開演:20:00
-会場-
恵比寿天窓.switch
〒150-0013 東京都渋谷区恵比寿3-28-4 B1
-料金-
¥3000(別途ドリンク代)
【仙台公演】
-日時-
2017年6月11日(日)
開場:18:30 開演:19:00
-会場-
JAZZ ME BLUES noLa
〒9800012 仙台市青葉区錦町1丁目5−1ノーバル・ビル1階
-料金-
¥3000(別途ドリンク代)
MORE INFORMATION
佐野碧 Official Website
http://佐野碧.com/
HIKARI SONG GIFT Official Site
http://hikarisonggift.com/